友人のお父様が亡くなられていた事を知りました。
最後にお目にかかったのは去年だっただろうかと思い巡らし、几帳面で紳士でいらした方が、退任後箒を持って門の外を掃いていらっしゃったのは、心臓の悪い奥さまへの配慮だと微笑ましく思った事です。
お山に最初に入った折に、ご近所の方に「この高野槇は値打ち物」と言われた木は、10年の歳月で一回り大きくなりました。
友人宅では一切の御供物をお断りしている事を知っていたので、高野槇の枝を高枝伐りハサミで伐り、白い秋明菊と一緒に花束にし、友人の大好物の栗と共に届けました。
“何も知らずに・・”と話すと、「東京が多いのかなと思ってて。今までのつけがいっぺんに来た感じ。」と、いつも通りの彼女に見えました。
哀しみや淋しさは、後々にやって来るものでしょう。
日本女性として初の要職についた彼女は、華やかに暮らした時期があり、和歌山に戻った頃は講演会にひっぱりだこでした。その頃に、「凄いのに逢った」と仏画師の宥恵さんに紹介され、すぐに友達になりました。
彼女の天才的な発想を社会が活かせるには、それを理解できる為政者がいなくては始まりません。
彼女を政治の世界にと、議員に推すべく尽力して下さった方もいます。その方は、実のお父様もお義父様も国会議員で要職を勤められた方でした。
これから彼女がどう一歩を踏み出すのかを見守り、応援して行きたいと思います。
大好きな日本の風景“棚田のはぜかけ”を車窓より眺め、この景色を永遠に遺したいと願わずにはいられません。